貧困というもの、境遇というもの、差別というもの – Information Teaching Service 雄飛

貧困というもの、境遇というもの、差別というもの

お早うございます、お久しぶりです。

本当にお久しぶりな書き込みです。

ちょっと、怒りが収まらないニュース記事を見まして、書いております。

私が怒っておりますのは、ニュースソースそのものというより、
それを取り巻く批判にあります。

何でも、貧乏人であるならば、それらしい貧乏な暮らしをしろ、
という事らしいです、極論的に言ってしまうと。

・・・うーむ。

実のところ、私は、貧困に近い境遇の中で生きてきました。

親の収入的には、中流の中の下の方でした。
ですので、親が多少無理をして、子供に不便をかけまいと、
そうしてきたことにより、辛うじてそれなりの生活ができておりました。

当然ながら、収入の大半は、学費に消えていきます。
欲しいものは、我慢、我慢、我慢。

それが常識でした。

そして、ある時から、自営業を実家で始めました。

自営業とっても、胸を張って出来るような、綺麗な仕事じゃありません。
俗にいう3K仕事(きつい、きたない、きびしい)です。

学力やいじめ問題等、諸般の事情で、私は公立校ではなく、私立高校に通いました。
多少の金銭的無理を押して。

その三年間は、多少は幸せであったと思います。

その当時の夢は、プログラマに憧れておりました。

しかし、経済的な理由から、その夢は絶たれました。

「専門学校に通えるほど、お金に余裕がない。」
「諦めて実家の仕事を継いでくれないか?」

でした。

実家の仕事は、俗にいう、掃除屋の仕事です、当時は。

3kも3kでした。

アルバイトで在学中に何度も手伝いましたが、嫌な思いは沢山しました。

道行く人からの差別なんて当たり前、
汚い人を見る目で見られることも多数。

そりゃ、きつかったですさ。

その、仕事に就いて欲しいと。

本当に泣きました、その日は。

やっとの努力して、疲れ果てて貰った給料は・・・、たったの12万。
またしても泣きました。

その代わりに買って貰ったのは、40万円もする、当時新型の家庭用コンピュータでした。

そのパソコンで仕事前と、仕事が終わって帰宅すると、朝が明けるまで勉強しましたさ。

おかげで、パソコンの基本構造には、この時の知識が幸いしてそれなりに詳しくなりました。

そして、数か月貯めた給料で、「Liblleto20」なる、20万円もする、DVDジャケット二枚厚位の、
超小型PCも買いました。
そして、当時最新の統合開発環境(RAD)と呼ばれる、
初代Delphiというソフトも数万で買って、猛勉強ししました。

その数年後には、12万位の、Delphi3も買いました。

そのちょっと後には、貯めに貯めたお金で、
120万円のデートカーみたいな車も買いましたさ。

生活は、相も変わらす苦しかったけどね。

これが、悪ですか?

問います。

これが、貧乏人として間違った選択ですか?

誰だって、貧乏人から脱したいでしょう?

努力して這い上がりたいでしょう?

それを、否定しますか?

否というならば、その様な人を、私は心の底から軽蔑します。

軽く鼻で笑い飛ばします。

いや、本気で。

最近も、起業をして生活は苦しいですが、30万近い開発環境を、
給料はたいて買いましたさ。

お陰様で、商売の選択肢が増えましたさ。
作れるソフトウェアの選択肢が大幅に増えましたしね。

無料の開発環境も素晴らしいけど、有料の開発環境も、
使ってみると大変素晴らしい。

話が少しそれましたが。

これらを批判する人が想像する貧困を、

「絶対的貧困」と呼び、発展途上国や開発途上国で見られる、
極度の貧困を言うらしい。

対して、先進国でのいま日本で起きている貧困は、
「相対的貧困」と言うらしい。

そして、またしてもニュースソースからの知識の借用になるけれども、
「相対的貧困」も、日本国憲法に先取りする形で第25条に盛られているらしい。

要は、行き着く先は、結局のところ、狭い固定概念にとらわれた差別は、
止めましょう、というところでしょうか??

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